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信長とフロイス

<こんぺいとう>は,砂糖菓子のひとつで
その名の由来はポルトガル語の「Confeito」(コンフェイト)からきている。

1543年(天文12年)にポルトガル人が日本にあらわれたことから
南ヨ-ロツパの影響を受けた「南蛮文化」が開花する。
時代は安土桃山から江戸初期にかけてのことである。
16〜17世紀にかけて,「南蛮菓子」がもたらされることとなるが、
「南蛮菓子」という言葉は,慶長13年(1608年)バテレンが正月の挨拶として、
「南蛮菓子一折」を持参したと,薩摩藩の「薩藩旧記雑録」に記されている。
「南蛮菓子」としては、「コンフェイト・カステラ・ボ-ロ」などが,その代表とされているが
他の文献には「アルヘル・カルメル・パアスリ・ヒリヨウス」などのもある。

種子島に漂着したポルトガル人達は
キリスト教の布教を目的にした宣教師と通商の拡大を目指した貿易商人であつた。
その6年後の1549年(天文18年)には,ザビエルが鹿児島に到着
遅れること20年,フロイスは永録12年(1569年)に織田信長に会つており
そのときの献上品が「コンフェイト」なのである。

ところが,寛永16年(1639年)江戸幕府は,キリスト教の禁止を徹底させようと
ポルトガル船の来航禁止を目的とした鎖国令を出すのである。
これにより,コンフェイトの輸入が一時とだえるのであるが
唐人によつてその製法が再び伝来され、日本人が自らの技術として製造していくのである。
このことは、井原西鶴の「日本永代蔵」(1688年)の中で
長崎の町人が「こんぺいとう」の製造に2年余りも取組み、遂に成功し大金持ちになる逸話が記されている。
そして、江戸時代末期の頃には各地にこんぺいとうの製法が伝わっていき、盛んになっていく。

江戸時代後期に手づくりされていたこんぺいとうは、明治の後期になると少しずつ機械化されていく。

こんぺいとうの機械について調べると、特許としては明治36年に
「金米糖製造器(回転輪釜)」の名で出願されており
この回転式製造機械を発明したのは村上辰三郎と言う。
この特許権を買い取り、こんぺいとうの量産をしたのが三谷為助である。
彼は,こんぺいとうの製造技術者であった東海慶太郎とともに、大阪西区に回転釜20台を据えて
「機械製金米糖」と称して大々的に売り出した。
この頃の加熱の方式としてはコークスが使われており、この火加減の調節が難しく
こんぺいとうをつくる職人は何年もかけ技術を習得したといわれている。

では,ポルトガルにおいてコンフェイトはどのような運命を辿っているのか。
勿論、今も作られている。ポルトガル本土のcoinbra(コインブラ)でも製造されてるし
また離島テルセイラ島にも数軒の工場があり、営々と作り続けられているのには
やはりコンフェイトが人々のこころに訴える何かがあるということであろう。
    


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